勝浦の地を徘回し、既に幾時間。
徐々に日が落ち始めた。
夜は太陽の位置の相対的な変化に合わせ光量が減衰する事に因り訪れる──と、理は説く。
だが、私の目には闇を構成する微細な粒子が、徐々に大気へと染み出してくる様にしか見えぬ。
闇は顕かに質量を持ち、世界を本来あるべき姿へと還していく。
漆黒の粒子が世界に満ちる迄、もう然程の時間は無い。
──寮棟はジェノヴァのパラッツォ・ムニシピオとか云う
──建物の外観を模したものだと聞く。
──何故それを模したのか、例えばそれを模す事で何か意味があるのか
──美由紀には理解できない。【絡新婦の理】より
トンネルを抜けると国道に出た。
車が多い。南房総への幹線道路故か。
ふと道路脇の看板が眼に入る。
武蔵学園鵜原寮──とある。
転じた視界の先には、桜の樹に囲まれた小さな寮が建っていた。
人影は無い。
それもその筈で、後に調べた所、どうやら合宿所の類らしい。
此処で数多の生徒達が寝起きしているわけではないのだ。
また、流石にパラッツォ・ムニシピオという風情でも無いごく普通の意匠である。
ちなみに武蔵学園中学校は男子校である――変な期待はしないように。
恐らく鵜原唯一の葬儀店。
作品内で幾度も張られる「延々と続く鯨幕」は此処から借り受けた物であろうか。
実はこの日も、横の電柱に、このすぐ近くで葬式が行われている事を示す、
例の指差し絵の入った張り紙が貼られていた。
只、それを面白半分に見物に行く事は流石に躊躇われたので遠慮した。
どうかご了承願いたい。
──そして伊佐間は気付く。
──老人の侘び住まいの窓は通りを挟んで丁度
──あの寺までの一本径に面して開いているのだった。
──最前まで伊佐間達は、この家の真ん前に生えている桜の樹下に居たのである。【絡新婦の理】より
鵜原駅に向かう為に街道を逸れ、再び静寂に包まれた路へと進む。
暫く行くと、右手の脇道の先に佇む寺が見えた。
──浄土真宗本願寺派、東照山真光寺である。
少し短いながらも真っ直ぐに延びる道筋と、脇に佇む桜の樹が、織作家の葬儀の執り行われた寺を思わせる。
但し、通りを挟んで対を成すのは極普通の民家だった。
少し進むと先程より大きな三辻に出た。道端には立て札がある。
右手に曲がると勝浦海中公園と鵜原理想郷に至る──との事だった。
ひとまず、そちら側に向かってみる。
すると間もなく善い案配に寂れたあばら屋が現れた。
木造平屋建ての建物は、正しく私のイメージする呉仁吉宅と合致する。
直ぐ横に咲き誇る小振りな桜の存在も善い。
先程の真光寺との位置関係は作品内の記述とずれているが、
場所自体は一本隣の辻と云う近さであるし、もしかしたら裏手に一本、寺へ真っ直ぐに延びる小路があるかも知れない。
山を穿つ切り通しを抜け更に進む。
左右を崖に挟まれ延びる路は、さながら碧の隧道の様だ。
濃緑の奇木と曲がりくねる蔓が、圧倒的な質量を持って迫り出し、
稀人の侵入を拒むかの如く、私に無言の重圧を加える。
その先は行き止まりだった。
最奥は裏寂れたマリーナの入口で、立て札に書かれた「関係者以外立入禁止」の文字が
言霊となって私の脚を留めさせた。
どうどうと響く潮騒に後ろ髪を曳かれながら、私は元来た路を引き返す。
路傍に咲く桜樹の取って付けた様な慰みが、
去り逝く粗忽者を嗤っていた。
幹道へ戻り、静かな家並の中を行くと左手に鵜原の駅が見えて来た。
貧相な駅前には店舗の一件も無い。
新鮮な魚介料理は、飽くまで私の胝に納まる事を拒む。
夕闇も近い。
此処から勝浦へは電車で行こうと思い紐解いた時刻表は、二十数分の錬獄を私に告げる。
する事も無いので、駅前の薄汚れた観光地図を仰ぎ見る。
半日を掛けて辿って来た今日の道程を、その地図はあっけ無い程短い距離に描く。
巧く説明出来ぬ、悔しさとも悲しさとも違う不思議な寂寥感を覚えながら地図を這う視線の端、
鵜原理想郷の突端あたりにそのかすれた文字を見つけ、私の胸で鼓動が高まる。
──明神岬。
そう、蜘蛛の巣館の在るとされる場所だ。
私は以前、何かの際に、蜘蛛の巣館の在るとされる場所は実在しない──と聞いた事があった。
あやふやな記憶ではあるが、実際、ウェブ上の地図で調べた際にも明神岬の名は発見出来ず、
それは空想の産物なのだと、すっかり信じ込んでいた。
しかし、目の前の地図に瞭然と示された実在の証が、私を再び理想郷ヘと招く。
夜の粒子はゆるやかに大気へと染み込み、海沿いの町を優しく侵す。
彼誰の刻は忍び足でこの地へ迫る。
休息の甘美と蜘蛛の毒の高惚を天秤に掛け、結果私は新鮮な魚介とのひとときを棄てた。
愚か者は踵を返し、静まりかえる家並を抜け──
張り巡らされた蜘蛛の巣の只中へとその足を向ける。
流石に腹が減ったので三辻の商店で惣菜パンを購った。
折角だからと店番の婦人に明神岬について問う。
すると、そんな場所は知らないと、思いも寄らぬ返答が反ってきた。
──私は一気に不安になる。
親切な婦人は、せめて可能な限り協力しようと思ったのか幾つかの質問を私に投げ掛けて来たが、
流石に小説に出て来た蜘蛛の巣館を探しているとは云えず、ぐやぐやと適当な言葉でお茶を濁し、
逃げる様にその舗を退散した。
鬱蒼と繁る奇木に挟まれた路と静寂に包まれた隧道を抜け、私は再び潮騒の響く海際に至る。
朽ちた看板は相変わらず私の侵入を拒むが、意を決して結界の内へと足を踏み入れた。
マリーナには数人の人影が見え何やら忙しそうに舟の手入れ等をしていたが、咎められることは無かった。
更に先へと進むと、入り江を利用した小さな漁港が現れた。
鵜原の漁業組合の事務所らしき小屋もある。
仁吉老人も毎日この湊から小舟を駆り、海原へと漕ぎ出したのであろうか。
路はそのまま海へと至り、岬へ通じる経路を見い出す事が出来なかった。
マリーナの入り口の手前に、もう一本岬ヘと延びる横道が在った。
入り口には──旅館への入り口とあり、私有地につき立ち入りを禁ずる旨が書かれている。
もはや此処以外に岬への路があるとは思えず、私は再び結界を破る。
案の定、件の旅館の入口は直ぐに過ぎ、路は更に先への隧道へと消えていた。
現し世を穿つように貫く漆黒の境界を超え、私は遂に鵜原理想郷へと足を踏み込む。
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